偉人・敗北からの教訓 第79回「安国寺恵瓊・関ヶ原の責任を負わされた外交僧」
- 2/8 (Sat) 21:00 ~ 21:55 (55分) この時間帯の番組表
- BS11イレブン(Ch.211)
番組概要
関ヶ原の戦いに敗れ、斬首刑に処せられた安国寺恵瓊の敗北を紐解く。天下分け目の合戦での勝利を目指すも、その直前に主君・毛利輝元に梯子を外されてしまった理由とは?
番組詳細
中国地方の大大名・毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の敗北から現代に通じる教訓を探る。1537年頃、安芸武田氏の一族として、安芸国に生まれたと考えられる恵瓊は幼い頃、一族が毛利元就によって滅ぼされたため、出家し、10代半ばで京都にある東福寺の高僧・竺雲恵心に師事。恵心と親交のあった毛利家に仕え、備中高松城の戦いで羽柴秀吉と講和交渉を行うなど、外交僧として名を上げる。
主君・毛利輝元が秀吉に臣従した後は、秀吉の天下統一に貢献。秀吉が亡くなり、豊臣政権が二分すると、恵瓊は石田三成らと共に西軍を結成し、徳川家康率いると東軍と対峙するが、関ヶ原の戦いの前日に西軍総大将の輝元が家康と和議を結ぶ。これにより、恵瓊をはじめとする毛利勢は関ヶ原の本戦で兵を動かすことができず、西軍の敗戦を招いてしまった。恵瓊はなぜ、主君に裏切られる形となったのか?
関ヶ原で武人として戦うことすら叶わなかった恵瓊は切腹を覚悟したものの、周囲の説得により生きる決意をし、敵の目をかいくぐり、京都の寺で身を潜める。しかし、敗戦から7日後、東軍の武将に捕縛されると、三成らと共に西軍決起の首謀者と見なされ、斬首刑に処された。毛利家は戦後、所領の大半を家康に没収され、長門と周防のみを安堵されることに。生涯を毛利家に捧げた恵瓊が後世に残したものとは?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
伊東潤(歴史作家) 中西悠理(フリーアナウンサー) 【ナレーター】槇大輔
BS11公式WEBサイトでは、みなさまからのメッセージを受け付け、公開しております。番組への率直なご意見やご感想など、どしどしお寄せください。お待ちしております! https://www.bs11.jp/entertainment/ijin-haiboku-kyoukun/
最終更新日時: